何時もお世話になっている岡山県立大学の児玉先生から、今回も表記イベントに参加しませんかとお誘いをうけましたが、高齢に伴う疲労症のため出席を断念しました。
かつて、三回にわたって吉備高原都市などで行われたシンポジウムに参加させて頂いた私は、今ではすっかり岡山大好き人間の一人になってしまいました。岡山駅前の桃太郎像。吉備高原で出逢った素朴な農作業中の方々を、今でも時々思い出しています。
ごく最近、放送大学の教育講座の中で、尾崎豊作品を取りあげているのをテレビで見ました。何故いま尾崎豊作品なのか。
『尾崎豊は、在学当時の高校生活の中で、自らもまた友人たちと共に悩んでいる諸問題の本質を、大人たちは誰も気づいてくれないことに苛立ちロックという形で声高く反抗の叫びをあげていたのだ。』というのが、彼の作品を取りあげた理由だと、その先生は述べておられました。
驚くべきことに、岡山県立大の児玉先生は、いち早くもう十年ほども前からそれに気付き、岡山県立大の中に『尾崎豊研究会』を立ち上げられておられたのです。
私自身、先生のシンポジウムに参加させて頂いてから、やっと初めて『尾崎豊』の叫びの意味を理解できたように思います。
そこで、どのようにして彼がその心の軌跡を辿ったのかを、遅ればせながら私は調べて何冊かの本として世に問いました。
ごくかいつまんで、それらの事をお話したいと思います。
まず『愛の目覚め』です。
豊は1才5ヶ月頃に、しばらく(飛騨高山の)父方の祖母に預けられました。その間に信心深い祖母から、多分に信仰の影響をうけたことは間違いありません。
暫く母の許に帰った二歳の頃、母はある絵本を読み聞かせましたが、その時の思い出を彼は『普通の愛−雨の中の軌跡』(角川文庫)でこう書いています。
『子供の頃眠る前に読んでもらった絵本がある。・・・『難破船の少年』という物語の内容は、ある船の上で少年と少女が出会うところから始まる。・・・突然嵐が訪れ船をのみこんだ。・・・激しく揺れる甲板の上で少年が頭に怪我をする。少女は自分の服を破り少年の額に巻いてあげる。やがて・・・船が沈没しようとする時、一隻の救命ボートから・・・・『後一人なら乗れる。それも子供がいい。』(という声が聞えた。)
少年は少女を海へ突き落とした。そして少女ボートに救出される。・・・『さようなら』。少女は沈没してゆく少年が自分に手を振っているのを見つめている。・・・
この物語は死を選んで少女を助けた少年の愛と、愛によって助けられた少女の悲哀を僕の心に刻み込んだ。(以下略)
二歳児の『尾崎豊』のうけたこの感動こそ『利他の愛』という彼の生涯の感性の基礎であり、かつて祖母が聞かせたであろう仏の慈悲の心でもあった。
次に『自由への目覚め』である。
これについて、私は『尾崎豊の心の旅路』(日本文学館)の中で詳しく書いたが、一言でいえば高校時代に学校から受けた差別体験の苦しみが大きな原動力となっていたのである。
最後に父との特別な関係についてお話したい。
豊の母が比較的に体が弱かったせいで、休日など、よく父と一緒にあちこち出かけた。以前から父(私)が習っていた空手の先生のところへよく出かけたが、彼が小学校に入学する頃からは、私が習い始めた尺八や短歌の先生のところへいつも彼がついて歩いたという記憶が残っている。そして、それは中学一年生のころまで続いた。
『たまたま私が邦楽と短歌への興味を示した時期が、豊の幼児成長期と合致したことが、彼の将来の進路選択に影響しなかったとは、むしろ考えにくい。』(拙著
尾崎豊−新少年時代・絶版リム出版)とは私の感想である。
青年期に入って尾崎豊が目指したものは『絶対の愛』と『絶対の自由』である。
話は少し固くなりますが、『愛』は与えるものであり『自由』は、逆に他者から自由を奪うことになることが多い。言葉を変えれば『愛』は利他であり『自由』は利己である。これは現実の世界では容易に成立しない反対概念であります。
尾崎豊は、成長するにつれて漸くそれに気づきます。
現実世界における自己の言動が、社会秩序の反する場合、当然自己の自由は制限され、或いは罰せられなければならない。しかし、それは甘んじて許容しよう。ただ、その自己に対する制限と罰の中には絶対的な愛が含まれていて欲しいのだ。
愛があれば私は、そして全ての人々はそれらの自らに課される制限と罰を許すことが出来るのだ。
叱責を伴う親の愛が、ややそれに近い。
『俺は歌う 愛すべきもの全てに』
という彼の歌詞の中にはそんな願いがこめられているのだと、父である私は確信しております。
心優しい岡山の人々の心の中に『尾崎豊』がいつまでも宿り続けることを祈ってペンを擱きます。
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